お話し
福嶋儀兵衛のみおしえ (伝 福嶋真喜一)
教会長 福嶋和一
教会便りから
三代教会長 福嶋真喜一 金光大神大祭挨拶から
天下太平諸国成就天下総氏子身上安全
福嶋儀兵衛のみおしえ (伝 福嶋真喜一)
 大本社の庭に居り立った儀兵衛はそのたたずまいの聞きしにまさる清楚さにこころを打たれた。
宮らしき何の飾りも施設もないひなびた百姓家である。土間に立つ「天下太平諸国成就天下総氏子身上安全」と認められた幟が鮮やかに儀兵衛の目を射った。生神さまがここ居ますの思いが身に迫るのであった。
 一両日何かとご理解を承り、いよいよ御広前を辞し帰路につこうとしてあとふりかえる儀兵衛の目に幟の文字があらためて天地乃神の又なき御神願として、拝まれ、終日神前に端座され、御取次に余念あれせられぬ金光大神の御姿が尊く仰がれるのであった。ここに導かれ参りあわせた御神縁、頂いた御信心が並々ならぬものであることを思うと共に、おのれに寄せられる御神意が奈辺にあるかを反芻せられずにおれなかった。
 大本社に詣る度に、儀兵衛の目をひき心を打ったものの一つに、この「天下太平諸国成就」「総氏子身上安全」という幟があった。
 金光大神様の御祈念の詞を承り、日々御祈念下さっれているそのご様子を伺うに及んで、改めてその幟に認められている神の願いのだいならぬさまを痛感させられた。
 これまで眺めていた幟、読んでいた文字が神願そのものとして、わが身をつつみ、わが心をとらえ、おのれ自身がその願いの真っ只中にあらしめられ、生かされ、その願いのままに生きずにおれなくなっていくのを覚えた。
飢饉にさいなまれる村人の中に生い立ち血なまぐさい争乱の世を過ごしてきた儀兵衛の心底には、いつのほどにか幟にみる願いが芽生え育っていたのである。
(中略)
 北清事変を経て日露の間に戦火が交えられるようになりその災禍の甚大さはこれまでの比でなかった。儀兵衛は金光大神の身をもって示された神願を日々祈願し続けていたが、時に思いあまることもあったのであろう。ふと家人に、
「勝った負けたと話なさるが、どちらにしてもそのかげには、敵も味方も沢山の人が死に傷ついている。また山野もこわされ、多くのものが廃っていく、神さまの氏子が殺し合い神さまのお恵みがお粗末になってゆくとは勿体ない事じゃ、神さまもおなげきじゃ、まことに相すまんことじゃ、なんとおことわりお詫びをもうしてよいやら」
ともらすのであった。
 明治37年5月13日真砂教会の教徒の息子が旅順港で戦死した。24歳の若人が御国のためとはいえその尊い生命を失った。一般世人はその戦功を称え、その栄誉をほめるのであったが、両親にとってはこの上ない悲しみであった。
儀兵衛はその悲しみに耐える両親の姿を見るにつけて、ありし日の面影、とりわけ広前に参っていた若くたのもしい姿が偲ばれ、戦いのさけえられぬ悲しみを深くかみしめるのであった。
かつて御本社に於いて仰いだ幟の文字を思い浮かべ、心より御神願の成就を願い、神意に逆らい、聖慮を悩まし続ける悲しい人間の所作を詫びるのであった。
佐藤盛雄先生
福嶋和一
 広島教会長だった佐藤盛雄先生は私の叔父にあたります。昭和49年3月1日に原爆症で亡くなりました。
 広島教会は広島平和公園の近くにあります。今、教会の門を出ると右側に原爆資料館や慰霊碑が見え、原爆ドームが見える本当に爆心の近くにある教会です。
 昭和23年4月、私は祖母である芸備教会の初代夫人佐藤照先生の葬儀の後、佐藤盛雄先生に連れられて広島教会を訪れ、泊めて頂きました。
 当時はまだ広漠とした焦土のなかに、ぽつんぽつんとバラックが建っているだけで、今日の繁栄した広島の姿は何処にもありませんでした。資料館も慰霊碑も平和公園もなく、原爆で焼けただれたドームだけがポツンと遺されていただけでした。
教会の横を流れる川に架けられていた橋は、今の平和大橋でなく昔のままで、しかも原爆の強い閃光でランカンの影が橋に焼き付けられたままでした。
銀行だったという建物の入り口には、同じく閃光によるしゃがみこんだ人の影が写っていたのが印象に残っています。道路はあらかた片付けられていましたが、原爆の生々しさが随所に残されていたころでした。
 広島教会は、未だバラックでしたが、手厚いもてなしをうけるとともに、先生からは、被爆の様子を聴かせていただきました。
 若い私にはそれは余りにも恐ろしく、酷たらしい話で、耳を蔽いたいほどでした。
その夜、教会の横の川の流れの音を聞き、「水、水、水をください!」という被爆して火傷を負った人々がそこで亡くなっていったのですから、その人たちの叫びが聞こえるようで、眠れなかったことを今だに覚えています。
 被爆当時、佐藤盛雄先生は、兵役から除隊になり、軍需工場に徴用され働いていました。
8月6日のその瞬間、眩しい閃光が走ったことまでは覚えているが、気が付いたときには、旋盤機の並ぶ間に倒れていたと話されました。
 崩れた工場から這い出た瞬間に火がついたそうで、一瞬遅れたら生命は無かったと思ったそうです。(このとき、盛雄先生の軍刀が支えになって下敷きを免れた方がおり、その軍刀は助かった方が「人を切らず人を助けた軍刀」だと大事に保管しておられ、近年御本部に届けられました。)
 盛雄先生が教会に帰ってみると、ご神前と思われるところで、教会長の老婦人が半焼けになって亡くなっており、先生の奥さんや子供さんの姿もなく、焼けくすぶる町々、壊滅した町を探しつつ、なかば諦めてその夜は宮島の信者さんのところへ泊めてもらったそうです。(私も翌日宮島のそのお宅に連れていっていただきましたが、そこでもいろいろな話を聴かされました。)
 盛雄先生の奥さんによると、奥さんは子供さんとともに教会の近所の理髪店に居たので、爆風で倒れた理髪店から這い出し、ようやく子供を引きずりだした瞬間に建物に火がついたといっていました。方角が判らなくなり、気が付いたときは、西に西にと歩いていたそうです。その途中で、広島市に入る救援部隊の福嶋義明先生(当時陸軍将校であった。現真砂教会長)に出会ったそうです。その後、奥さんは頭髪が放射線の影響で抜けてゆきました、丸坊主になったそうで、その奥さんの姿を見て大変痛ましく感じました。

 佐藤盛雄先生師は広島で平和運動に身をつくし、また、宗教教悔師のご用をされました。いつ発症するかもしれない原爆症への思いを心に秘め、多くの死刑囚達と生死について語り活動をされました。
 昭和35年5月には当佐野教会の大祭に来て下さり記念説教をしてくださったことが忘れられません。
 なお、息子さんの佐藤憲雄先生もその後原爆症で亡くなり、現在はお孫さんの佐藤清志先生が教会長をされています。
信心の継承
教会便りから 福嶋和一
信心の継承ということがよく話題になる。信心が子孫に伝わらない、受け継いでくれる者がいない。こういう言葉を聞かされることが多々あります。逆に親が亡くなってから、親を偲び、親の歩んだ
信心の道を歩むようになった方もおられます。

 以前、講話の検討会で、ある先生がおっしゃっていた話です。
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 長い年月、その先生の教会に参られていた老婦人がいた。
 老婦人の息子の嫁は、十数年前から違う宗教で信心している。そのことについて老婦人からは「嫁には金光さんへお参りしてほしいが、私の言うことは聞かず、他の宗教へ参っております。」と聞かされていた。
その老婦人、しばらく見ないと思っていたら、足を骨折して入院し、退院後は車いすの生活になっていて、それから間もなく老人ホームへ入ったとのことだった。
信者さん同士は皆老婦人の肩を持った。理由は何人かで老人ホームを見まったところ、
「私が入院中に、長年住み置れた家を改造して、みんな板場にしてしまって、住みばれた畳の部屋がなくなった。私を家に住みにくくして、老人ホームへ追いやった」
と聞かされたからだ。
ところが、そのお嫁さんと道でばったり会ったご信者さんがおられ、くわしく話を聞いてみた。
他の宗教へ参ったきっかけは、「教会へ参りなさい」と母には言われていたが、母が教会から帰るやいなや、他の信者さんの悪口を言い出す、生活の不満もさんざん聞かされ、何しにお参りしているのだろう?信心て何だろう?と疑問を持っていたところが、他宗へ導かれ、本来根の真面目なお嫁さんは、他宗で救われたらしい。
家を改造したことについては、車いすの生活では、家の中で段差があると不便であろうから、板場にして車いすでも生活出来やすいようにとの計らいであったらしい。
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核家族でもなく、まして神信心が嫌いではないお嫁さんがいる。そんな条件の良い家庭でも、信心が現せなければ伝わらない。
ここでの信心は「参れ参れ」と押しつけることではなく、「私が教えて頂いている信心が家族の者達に伝わっていきますように」と直向きに祈りつつ、態度で示してやることである。
今日聞いてきた話を「そうだ、その通りだ」と鬼の首でも取って来たように話をしてもそうそう伝わるものではない。
この老婦人はお嫁さんに信心を伝えようとしていた。確かに熱心であったのだろうが、神を現し、神の願いに生きるという信心生活にはなっていなかったのかもしれない。
信心継承の障害はいくつもある。とはいえ「分かってくれない」と相手を責めても立ち行かない。信心しているお互いは、"伝わっていかない原因は自分の信心にある"と、どこまでも自己の改まり、自己の信心にこころを向けたいものである。
じぶんが未来の安心の為に信心を伝えようとしたり、一方的に説き伏せようとすると、"押しつけ型"の信心になってしまい、伝えたいほんとうの芯のところが伝わらないように思う。
家族の幸せの為にどう接っしてやればよいか。どう振る舞えば家族が立ち行くかそれは、
「家族の幸せの為に信心を伝えたい」と願う心こそ大切であると感じる。
家族一人一人が生き生きと生きることに"価値観"を置くこと、このことが結果的には信心が伝わる近道であるように思われてならない。
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日々の生活が信心生活になるよう、お願いしながら日々を過ごさせいただきましょう。
金光大神大祭を奉仕して
三代教会長 福嶋真喜一 金光大神大祭挨拶から
 皆さんもご存じのように金光大神様のお取次、すなわち、御教えやら、お取次のご祈念やらをいただかしてもろうて、信心の道を、今、一歩一歩、歩ませていただいておる我々であります。
 金光さまのおっしゃるとおりに、信心をさせて頂いておれば、天にも地にも満ち渡っておるところの、神さまの大御蔭を、身にいっぱいに頂かせてもらうことが出来る、出来てきておるのであります。
 私の祖父が初めて、大阪から金光さまのところに参拝をさせて頂きましてお取次をお願い申しあげたんであります。その時に、金光さまが「遠方よくお参りでありました。信心して御蔭をうけて、身に徳をうけて、人
の助かるような、御蔭をうけなさい。」というみおしえを頂かせてもろうたのであります。
 それから、以来たびたびご本部に、金光さまのお膝元に、お参りをさせて頂きまして、お引立てを頂いてまいりました。そのお陰で、まあ私ら孫になりますが、孫の時代のみんなが、皆打ち揃うて、金光さまの御信心
の尊さを、身にしみじみとあじあわせていただいて、おかげを蒙っておるのであります。
 現代の、世の中の有様を、人間のあり方を見ますというと、天地のご恩ということをあまりに知らない。
 お日さまのお照らしをいただいて日々生きておること、お月様のお照らしをいただいて夜も明るうに過ごさせていただくことが出来ていること。
 また、おろそかにしておりますが、毎日私どもは、大地の上に立ちはだかって、その大地から出来てきておる処の、大地に培われている処のいろいろの、大根やら、お米やら、また、水には川には海には、お魚やらい
ろいろな種々の食物をお恵みいただいて、それを口にし、身につけて生きさせていただいておるわけであります。
 そういう御蔭をうけておることをみな当たり前に思いましてあまり有難とうに思わない、うかうかと暮らしているような状態でありまして、これは神さまからご覧になると恩知らずといいますか、そいうことに私共はなり、落ち込んでおると申してもいいのであります。
「天地のご恩を知る」ということがなかなか疎かになっております。
それを私の祖父等は金光さまのところにお参りをして教えていただいた。
「食物はみな人の命のために天地の神の作り与え賜うものぞ、何を喰うにも呑むにも有難く戴く心を忘れな」 どうも我々は喰うものについては口が肥えておりまして、喜ぶよりも味をあじおうて、そうして、まずいとか、なんとかかんとか、文句を文句を言いやすう、お粗末にしがちでありますが、祖父はそういう金光さまのお言葉をいただきまして、ひたすら一粒のお米も疎かにせず、一杯の水ももったいのう頂いて、御信心の道を歩まして頂いてまいりまして、子孫の我々に御蔭を残していってくれましたわけであります。
 まことに、私自身、そういうことを振り返ってみて、勿体ない有り難いことじゃったとおもわしてもろうてよろこばして、金光さまのご信心を頂いておることの幸せを、身にしみておるわけであります。
 今日は、その金光さまの、年に一度の御大祭。今年も御蔭を受けさして頂き、皆様もお参りを頂いて、つつがなく、御奉仕のおかげを頂きましたこと本当に有り難いことじゃと、御礼を申さずに居れません。
 共々にご縁を頂いて、金光さまのお道にご縁を頂いて、信心を共にさせて頂いておることを、お礼申して、お互いに励まし合い、力になり合うて一層この道を、進まして頂いて大勢の難儀な人達のことの身の上にも御蔭を蒙って参らしていただきたいと思います。
 金光さまは、私の祖父に「信心して人を助けて神になれい」ということを最後におっしゃって下さっております。亡くなるまでそのことを祖父は金光さまが「信心して神になれ」ということをおっしゃったということをもうして自らを慎み、信心の道に励んでおりました。
 お互いにも同様に金光さまの御信心を身につけさせていただいて御蔭を蒙って参らしていただきたいと思い、祈らずには居れません。
 この御大祭を潮に一段とお引立てを頂いて真の信心をさせていただくよう御引廻しを頂きたいものであります。