み教え

福嶋儀兵衛師の伝え(金光教教典より)
佐藤範雄師の伝え
内伝(金光教教典より)
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金光教教典抄「天地は語る」から

内 伝
..  第一日
佐藤範雄先生 述 
緊張した話は、する者よりも聞く者がえらい。ご霊地に参拝し、生神様のお言葉を一言二言承ることは、容易ならぬことであった。時には五時間も座っており、足が立たないようになることもあった。五里も七里も、わらじがけで参りて来て、それがえらいようではおかげにならぬ。足が立たなくなっておるのがありがたいのであった。
(2)教義の研究という言葉は用いぬようにしてもらいたい。研究というようなものではなし。修養という言葉であって欲しい。(3)質問という言葉もさけて欲しい。お伺いとか、おたずね申すとかいう言葉であって欲しい。
(4)教祖ご在世中は、お道のことを書いた物で見て知ることは絶対になし。初代白神師の「御道案内」は自身の手控えで、後に現れた物である。(5)信心のことを知るに近道はなかった。お庭草を踏み、足の裏にまめが出た徳で、一つ一つ信心の徳を積み進んだものである。(6)今は、早く道を知りたいという考えが盛んになった。これは悪いことではないが、机の上で知りたいというので、道力がないから、物知りはできたが神徳者ができぬ。実際の徳がないために、人を生かすことができない。
(7)教祖のご裁伝やご理解は、氏子の徳が積むに従い、だんだんと尊き教えをたまわった。三年も五年も参りおりても、おかげの御礼だけに参る者へは、ただそれだけのみ教えにとどまりしなり。いわゆる平信者でとどまりし者多し。(8)お試しにお試しあげなされ、そのうえで本当の教えをなされしものなり。私どももお試しを受けた。
「氏子は千人に一人の氏子ぞよ」
とおっしゃることありしは、そのためなり。
(9)今の人としては、神誡、神訓、御理解(「金光教祖御理解」)は、先輩が生神様より承りしことを世に伝えたるものだが、今承るには、生神様の教えを承るという心持ちになること大切なり。(10)六か月くらいで道の奥まで承れるものでなし。道の極意は、神徳を積めば、親神様からも教祖様からも、地位の上下を論ぜず、信の一心によって各自に教えをたまわることになっておる。それには、自分の真の生っ粋を磨きあげていかねばならぬ。
(11)先日も、道のことに志の篤い青年が来て、教えを受けたいと言う。忙しくしておる時で、あって話してやることができない。幸い、その青年の問うことは、かねて文書にしておったから、これを読んでみよと言って出してやったら、五分間ほどで読んで返しに来た。それは、五分間もあれば読むことは読めるのだが、しかし、その中に書いてあることは私より他に知る者はないので、それを読んで当時を追想し熟考し黙想せば、一時間や二時間くらい動けるものではない。それを五分間ほどで読んで、すぐに帰して来た。それで、文書をもってする教えは大いに考えものだという気がした。それを読んでは、しばらく涙を流して動くこともできぬくらいのものと、私は思うておったのである。
(12)書いてある物も、教祖のことを書いてある物は、教祖を拝し奉るの気持ちになって拝見すること大切なり。そこに道力が備わるなり。無学なる神徳者より話を聞き、頭のあがらぬようなことのあるものなり。この風儀を改めるようにしていきたい。布教ぶり、教育ぶりを。かかることにては、神様の教えを受けるようになることはできるものではない。
(13)平田篤胤大人は、本居翁のご墓前において弟子入りをし、そして『古事記伝』の原稿を読ませていただくことになられしなり。私は、元田永孚先生の倫理、井上哲次郎先生の東洋哲学、それにより私は教えを受けしにより、このお二人には先生の礼をとっておる。
(14)教祖には写真も画像も木像もなし。これは、教祖が、
「形に目をつけてはならぬ」
とお許しにならず。黒住宗忠の神のお姿ができておるので、私も申しあげ、藤井恒治郎氏らも申しあげたが、お用いなかった。第一世管長(金光萩雄)様に正神(金光金吉)様の御眉毛を持ってまいれば、生神様にほとんど近い。眉毛も濃く長く、御前が少しはげ気味、第一世管長様よりお顔が少し丸くおわした。
(15)今日をはじめとして、教祖の神がほうふつとして拝まれるようにいたしたいと思う。生神様にお目にかかれるということにいたしたい。その祈願を篤く教祖へお願いしておるわけである。
(16)今回の話は、長年調査しておることを話すのであるが、今春、明治九年まで話した。それで、年代順のいかんを問わずに、前のようなつもりで話してみようと思う。何月何日ということのわからぬものは、わからぬままで話すことにする。一日の日を確定するに、備前、備中、備後、安芸と調べ、半年を費やしたることもある。(17)教祖ご在世中のことを、内伝と言うておる。本教にとっての神代である。ご帰幽の後は人代と言うことにしておる。
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金光教教典理解3類より 
線香のご神意

教祖は心経をあげておられた。六根の祓と大祓との三とおりであった。そして、線香をおたきになっておられた。私どもは皇典の学を多少しておったので、どういうものであろうかとの疑い起こり、十四年春のある日、他に参詣者もなかったのでお伺いしたことがある。(2)「金光様、神様に線香をおたきなされるのはいかがでありましょうか」と伺いしに、
「長者の万灯、貧者の一灯ということがあろう。その貧者の一灯も奉られぬ者もあろう。神は灯明でも線香でも、かまわぬ。一本の線香を奉られぬ者は、一本を半分に折りて奉りても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香も奉られぬ者は、切り火をして供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香の灰でもおかげを受ける者があるぞ」
と仰せられた。(3)これによって、真さえあれば奉らんでも同じことということは許されてないということを、いたく感じたのであった。いかなる長者も貧者も同様に受け取ってやるとのご神意が、ありがたく感ぜられたのである。これ以上行き届いたことはなかろう。
(4)線香は十六年七月十一日限りおやめになった。(6)大阪に道が盛んになり、二代白神師、信心相続したばかり、近藤藤守師と二人にて、道が盛んになり、おかげは立つが、取りとめがつかずとて、大阪神道分局の者が教祖のもとへ行って直々にお話をして来るというので、七月十一日に、その宣教師亀田加受美中講義、吉本清逸キヨイツ大講義、武津八千穂フカツヤチホ(武津氏は来らず)下り来り、大阪で道が立つか立たぬかを定めてやるということになった。三人が来るということがわかり、生神様へ申しあげた。その時に線香は取りやめられた。金灯篭もあったが、それはそのままにされた。
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金光教教典理解3類より
氏神の取次 −− お出社のない時代

教祖、いまだお出社(今の教会所)がない時代に、お取次をする広前が遠方にはない時代に、信者の願い事をいかにして達せられたか。(2)備中大谷に生神様現れられ、ご霊験高しと聞き、参り来る信者の中には、「私どもは遠方でありまして、たびたび参詣することができませぬから、お取次をする人をお差し向けを願います」と申しいでる者がたくさんにあった。
(3)教祖様はご祈念なされて、
「遠方の氏子は、急ぐ時にはここまで参って来なくても、氏神の広前へ参って、氏神の取次をもって願え。氏神がここまで取次いでくれる」
とご裁伝ありたり。私も、たびたび、これは承ったことがある。すなわち、これが布教所のはじめとも言うべきか。
(4)この教祖の広大なるご態度は、ご神訓にも、
「わが信ずる神ばかり尊みて、ほかの神を侮ることなかれ」
となって現れておる。(5)ある時には、教祖、
「氏神より届け出ておる。今おかげをやっておる」
と仰せられたこともある。氏神がみな、金光大神のお取次の広前であったのである。(6)他の宗教は諸宗をそしることによりて立ちしものでであるが、その差いかばかりぞや。しかも、死生を託するうえには寸分の障害を生ぜなんだ。他の神を拝んでも、生神様に対し奉る信心の迷いは起こらなかった。本教の尊いゆえんここにありと思う。
(7)明治十八年、教会設立出願の時にも、神道事務局は前々より、主神のほかに産土神を奉斎すべき規定であった。それで、その時にも、こちらでは障りなくできた。教祖のみ教えなかりせば、さしつかえを生ぜしならん。独立の時には産土神をお載せすることにせなんだ。天地の親神と教祖とをまつることになった。粗末にするにあらず、除外したのでもない。独立して、氏神は氏神として別にまつることにしたのである。これによっても、お道はじめのお道開きが森厳なるお手続きにより開けたことがわかるであろう。
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金光教教典理解3類より
ご神号ある信者のお届け方

ご神号は、明治三年九月、地頭(浅尾藩知事)よりおさしとめになった。それまでの信者にくだっていた。(2)ご神号ある信者の参って来た時には、御歳書はないのである。その時には、教祖は大神の前に向かわせられ、
「今日は西六金照明神(高橋富枝)参詣いたしました」
「松永金子大明神(浅井岩蔵)参詣いたしました」
とご神号をもって終わりまでお届けなされた。実に森厳なものであった。他の者は、
「何の年、何十何歳、参りました」
とお届けなされた。ご神号をいただいておった人は大勢あった。
(3)ご神号には二とおりある。笠岡(斎藤重右衛門)は笠岡で下げ、西六は西六で下げられしものである。それと、教祖からのと、二とおりであった。
(4)お広前を開きおる者はたいてい、ご神号をいただいておった。今日の教職よりも森厳なるものであった。
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金光教教典理解3類より
ご縁日

ご縁日というお言葉をお用いになり、ご祭日というお言葉はお用いにならなかった。お十日だけはご縁日と言わず、金光様のお祭り日とと申しておられた。(2)伯家神道と称せられたる白川家の神道が本教には入っておる。ある時には白川流の神道のお話がある時もあり、ある時は仏教流のお言葉がある時もある。お祭り日をご縁日と申されたり、あるいは線香もたかれておるので、ある日、私参りたる時、他に参詣者のなきとき、「金光様、あなたの教えなさる道は唯一神道でありますか、両部神道でありますか」と伺い奉った。(3)金光様は、
「そうじゃのう」
と仰せられ、御領辰の年の氏子(佐藤範雄)参詣の旨お届けあり、
「御領辰の年の氏子、此方は唯一神道も両部神道も知らぬ。ただ、天地の道理を説いて聞かせておる」
とのご裁伝あり、いたく感じた。(4)ご祈念すみて、ご理解となり、
「此方は何も知らないでも、神様はあのように教えてくださる」
と仰せられた。このご裁伝の時、身がぶるぶる奮い立ち、言語に尽くせぬ森厳なものであった。ご理解の時はまことにお静やかで、打てど波も立たぬ御有様であった。
(5)このご神慮は、御理解(「金光教祖御理解」)七十節、
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」
となって伝わっておる。(6)このご裁伝、ご理解を拝するまでは、不徳にして、お道の本体についてもいろいろ疑うところがあった。どこを本体として向かったらよいかと。ところが、これとともにいっさい万事晴れてしまって、さっと心中が晴れてしまった。うれしいともありがたいとも申しようがなかった。(7)青年として、疑いの晴れた時ほどうれしいものはない。その時の感じ、この道は、まったく世に伝えのなき天下無類の神の伝えをお開きなさる神聖なる道であるという気がした。それ以来は寸分も迷いが起こらぬようになり、一段階、神の方へと進ませていただいた。
(8)教祖は、お伺いしても、すぐさまお答えにならぬ。何でもないことは別であったが、お道のことについての疑いは大神様にお届けになり、ご裁伝にてみ教えあり。それがご裁伝として下がった時は、教祖ご自身もお喜びになり、その御有様いかにもお喜びであった。いかにも、これは鮮明なお話であった。(9)ご裁伝の方はいつでも簡単明瞭。ご理解の方は、しぜん、長くなった。(10)ご裁伝は、神前に向かわれご祈念のまま、ご理解は、お机に退かれ横向きにて、氏子に説き聞かせらるるを言う。
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金光教教典理解3類より
教祖大祓詞奏上をやめたまう

教祖は、はじめ、お祓、心経をあげられ、お祓は六根清浄の祓にて、ともに地方に行われしままを奏せられておった。(2)元治元年、白川神祇伯王殿から、神拝式許状にそえて大祓詞下がり、しばらくして、大祓詞を奏せられることとなった。六根清浄の祓に続き、大祓詞を奏せられしが、後いつとなしに六根の祓をやめ、大祓詞だけとなった。
(3)明治十四年春のころから、参詣すると大祓詞をやめてござる。教祖の大祓は涼やかにして、金鈴を振るようであった。それをやめられ、お願いこみだけとなっておる。「ありゃ、大祓をおやめになっておる」と思い、ある時、参詣者のない時(教祖の広前には三人か五人か参りおることもあり、切れることもある)「金光様、このごろは大祓をあげられませぬが、どういうわけでござりますか」と伺いしに、
「神様が、『大祓をあげてもあげないでも同じこと。氏子に一口でも話をして聞かせい』とのお指図であるから、やめた」
とのお言葉あり。(4)私どもは、これを拝して、かく思う。教祖の神は、明治三年十月二十六日、天地のしんと同根なりとの、ご神格がついてきておられるけれど、御慎み深いため、
「此方といえども、間違えば、いつお暇が出るかわからぬ」
と仰せられ、ほとんど、このお言葉を座右の銘としておわした。(5)それが、いよいよ今度は天地の神と神人一体と立たれ、生神のお口より出ずるお言葉は天地の神のお言葉となるごとくお進みなされしにより、大祓の時間があれば一言でも氏子にお話を聞かせなさることになったのである。
(6)「此方の道は祈念祈祷で助かるのではない。話で助かるのである」
とのみ教えどおりになり、それより教祖には拝み詞がなくなり、氏子のお願いをただ取次がれるのみとなった。親神様と教祖との間に何らの形式も入れずに、おかげを受けられることとなった。(7)金光大神の拝み詞は、生神金光大神の手続きをもって天地金乃神と拝むのが、拝み詞となった。ご在世中、このことがはっきりしたのである。(8)教祖は、
「此方の道は祈念祈祷で助かるのではない。道を歩きながら話をしても、畑の岸に腰をかけて話をしても、得心がいけばおかげになる」
と常に仰せられた。(9)これは、御理解(「金光教祖御理解」)六十一節、
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな」
とあるご神意である。(10)また、御理解六十八節に、
「神参りをするのに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め」
とあるのもそうである。(11)ここに注意を要するは、今日の儀式を粗略にしてはならぬ。教祖は折り目正しきを守られたのである。内に改まりが正しければ、外に現れてこなければならぬ。大祓も何もあげないでよいというのは、自分の徳が神と同根なりとまで進んでいなくてはならぬ。
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金光教教典理解3類より
上下そろうのご神意

このことは本教万世の方針であるから、具体的に言うておく。教祖のご神慮のほど、将来を思わせらるるの深かりしこと、口にするあたわず。(2)教祖ご在世中より、手厚き信者は、お道をお取り立て申そうということを、しきりに申しあげたものであった。生神の道が上に貫くようにお世話を申そうとしたものであった。それは、その筋(官憲)が拝むことを許さなかったから。(3)教祖は、
「まだ時節が来ぬ。まだ時節が来ぬ」
と仰せられ、お許しがなく、手の着けようがなかった。
(4)道は岡山から西周防辺までは早く開かれた。岡山より東は比較的遅かった。(5)明治十二年のコレラ病流行の時、初代白神師、大阪にておかげ立ち、昇天の勢いで人が助かることとなった。初代帰幽、次いで二代となり、初代の高弟近藤藤守師出で、いよいよ盛んになる。(6)どうして大阪で道を開いたかというと、大阪神道分局の派出説教所として開き、信者は日々に多く参る。宣教師亀田師ら大阪の本教信者を見るに、まちまちにして道が不明瞭で、何が何やらわからぬというので、神道分局では問題になった。これは、もとへ参って生神にご面会して教義を聞き、筋立てねばならぬとて、亀田師、吉本師、この地へ下り来ることとなった。
(7)白神、近藤両師、前もって参り来り、生神様のご都合を伺うた。それが明治十六年六月九日のことであった。大阪の事情を両人言上し、御領の佐藤に相談いたしたいと思いますがいかがでござりましょうと申しあげた。生神様はご祈念あり、
「御領へ行くようにしたらよかろう」
とのお言葉あり。(8)私は九日には御領にあり、十日はお祭りゆえ生神を拝しに参ろうと神様に伺いしに、「大阪から来るから、参らずに待っておれ」とのお知らせあり。待っておったが、いっこう来ない。昼飯がすんでも来ぬ。神の教えが間違ったかなと思うておると、四時ごろ使いが来た。「これから参ろうと思うが、行ってよいかどうか」と。「待っておる。来てくだされ」と返事し、五時ごろ両師来る。
(9)その時の随行は、道願縫、虎谷吉兵衛、大場吉太郎、今一人あったと思う。随行は宿に残り、両師のみ来る。「大谷から笠岡まで車に乗り、中利旅館に寄り、車を乗り継ごうとしたら高く言い、五厘の相談調わず歩いた。白神は脚気にて困った。近藤が我慢で歩かせられて困った」と言っていた。
(10)「さて、ご用はいかが」「今日は金光様のお許しを得て、ご相談があって来た。かくかくで大阪で道が開けたが、三人の人(亀田ほか)が金光様に直々にお会いして、お話を聞かねば説教ができぬと言って、大谷へ来ることになったから、その引き受け方について相談に来た」「それは、いつ来るか」「来月十一日に来る。それで、いっさいの準備をしてもらいたい」というのであった。
(11)いろいろ干渉があり、「そんなことはすな。こんなことは言うな」と言うて、どうにもならん。どうしても、この道を貫くようにせねばやりきれぬ。それで、三人いろいろ相談した。一夫(範男の長男)が生まれたばかりの時であった。目刺しを焼き、飲みつつ話をした。ランプの光がなくなったので気がつけば、夜が明けておった。
(12)それでは準備をしようということで、十一日、両師は大谷へ帰り、生神様へそのことを申しあげて大阪へ帰った。後にて聞けば、非常にご安心の御模様とのことであった。(13)十二日、私どもも参り、事の次第を申しあげたるに、この時、生神様、
「上下そろうた」
とお喜びになった。
(14)七月に来る大阪よりの人を待つべき準備のことを申しあげ、それより山神の君(金光萩雄)にお目にかかりしに、「佐藤さん、この度、大阪の両師とご相談のことを、金光様はお喜びであります。これまで、お取り立て申そうと、いろいろ言うて来る人もありましたが、この度は『上下そろうた』と仰せられ、『時節が来た』とのお言葉であります」と山神の君仰せられた。
(15)上下とは、階級上の上下の意義にあらず、これは西も東もとのご神意なり。これは備中大谷を中心としてのことである。(16)道は四方八方へ広がり行く。道を開くは人である。人を用うる偏することなく、広く中心を持つべきことを語られたるなり。
(17)東が二人、西が二人。私の裏には金照明神(高橋富枝)があるが、金照明神は女の身で表に立てぬから、御領辰の年(佐藤範雄)をお使いくだされと金光様に申しあげてあったのである。(18)これは、将来永久に道の幹部に立つ人を用うる基礎立てるなり。
(19)これ以前にも、教会の組織はできぬことはないのであった。山神の君には、明治十一年六月二十日、賀茂宮(大谷村の氏神)の司掌となられおり、また十二年七月には神道事務局より教師試補に補せられておられ、教会組織ができるのになされず、上下、人のそろうのをお待ちになっていた。部下は、道を開くに非常に困難したが、その困難を忍びつつ時節を待たれしなり。これ以上説明せんとするも、思い余りて言うことあたわず。(20)それより、大阪より来たる人を待つ準備として、本をいろいろ買うて読んだ。規則を知っておらねばならぬというので、『神官必携』(明治十四年までのもの)なども買うて、よく読んでおいた。注文した本が早く着き、都合がよかった。
(21)七月十二日、両師来る。白神、近藤、案内し、四人連れで来た。吉備乃家の一室で引き受けた。(22)両師の案では、美濃の国南宮神社は金山彦命をまつってある、その分霊を受け、出社として立てたらよかろうというのであった。そのことを、両師が教祖にお目にかかる前に、教祖に申しあげた。
(23)「此方のは神様が違う。そのとおりにはできませぬと言うてくれ」
と仰せられた。(24)そのことをば両師へはいまだ話さずに、両師を生神様のみもとへ案内した。両師とも体を清めて参り、右の次第を両師より申しあげしに、ただ、
「ご苦労でありました」
と仰せられるのみ。そして、
「御領をもってお話しいたさせます」とおっしゃる。みな、み前を下がり、宿にて両師が「論外じゃ、論外じゃ」と言う。それから、お話の次第を申しあげたが、「かくかく仰せられます」と申したら、「偉いお方じゃ」と言うのみであった。優遇して、白神、近藤両氏を案内として、また大阪へ帰った。(25)この大阪の両師の申しこみは、まことに親切な話なれども、お受けなし。もし、この時に、それならそうしようかと人情に流れられたら、金光教の今日はないのである。(26)これをはじめとして、白神、近藤両氏と私との会合しばしばとなり、そして、相談が一つできれば教祖に申しあげ、また一つできれば、また申しあげるようにして、その夏を過ごした。
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金光教教典理解3類より
序言

今日は最も大切なる事項に入る。ただいまよりお話しすることは、管長(金光家邦)様ほか一人二人、おもなる方々が心得おかるればよろしいことと思うが、管長様より、みなへ伝えてやってくれとのおぼしめしゆえ、教祖の神よりのご命と拝してお話しする。私の口からたびだひ聞くことがあるとは思わないようにして欲しい。(2)これは調査に時間をとった事項ではない。ご存生中よりわかりきっておったことである。教祖からおとめになっていないことであるから、お話しできるのである。
「これは此方とその方だけ」
と言われたこともあるが、そういうのはお話しできない。
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金光教教典理解3類より
神誡神訓拝承の次第

ご神誡、ご神訓拝承の儀は、明治十五年八月のこと、私どもの郡、安那郡平野村の長岡宣氏(小学校長兼神官。私が教師になるにも尽力してくれ、いろいろ道のことにも尽力した人である。安那郡神道支局副長)の紹介状を持ち、鞆の沼名前神社宮司ヌナクマジンジャグウジ吉岡徳明ノリアキ師のもとに至り、「備中大谷に生神金光大神という生神あり。此方はかくかくの教えをせられ、私はその信者であるから、この道を別派独立したいので、宮司に何かとお取り立てを願いたし」と申したるに、吉岡師「その教えの信条があるか。その信条によっては独立できぬことはない」とのこと。(2)信条ということがわからぬので、「信条とは何でありますか」と問うたら、「何か、その教えを箇条に書いた物はないか」「それはないが、日々のご裁伝があります」「それを箇条に書いて、見せてください。それを見たうえで、何かとお世話しましょう」と言うてくれた。ここにおいて、将来を頼みおきて帰った。(3)翌日、生神様のみもとに参り、事の次第を申しあげしに、その時のお言葉、
「此方は、独立してもせんでも、人が助かることさえできれば結構である」
と仰せられた。(4)金光様の所では、明治九年の県令により人を助けられることもできることになっていたが、出社の方はなかなか困っていた。「金光様おわする間は仰せのとおりで結構でありますが、お隠れの後は何か書いた物がありませぬと、世のはやり神と同じように思われます」と申しあげた。(5)この旨、神前に奏せられて、ご裁伝あり、
「神の教えることを何かと書いておくがよかろう」
とあり。(6)この時、教祖いたくお喜びあり、
「あのようなお許しがあった」
とお喜びになった。この時の教祖のお心持ちを受け取られたし。(7)それより社務所へ行き、山神(金光萩雄)様に先の次第を申しあげたが、これまたお喜びあり。
(8)十五年中は、書きあげる物もはなはだ少なかった。十六年正月より、
「これも書いておくかのう。これも書いておくかのう」
と仰せられ、拝承しては回らぬ筆で書いた。かようなわけで神誡神訓はできたのである。(9)一つできれば山神の君に申しあげ、山神の君も書きおかれた物もあり、相合わせて今日に至ったのである。これ実に独立準備のはじめである。
(10)間もなく吉岡師は東京に帰り、内務省に入られた。私どもは無知文盲にして、いかにして独立すべきかの見当さえ立たざるところを吉岡師が言ってくれ、生神、神に奏せられ、お許しがあった。恐れ入ったことであった。
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金光教教典理解3類より
明治十五年十六年教祖のご神慮

ご立教はじめは、昼夜も分かたれず、お食事も日に一度のことながかりしと承っておる。朝早くお起きになり、お広前にお仕えになり、人が参って来る。また参って来る。夕食が一度のこと長く続きたりと。信者も、朝暗いうちより夜に至るまで切れることなかりしという。(2)そういうことであったが、朝は食事して勤めよとのお指図あり、それからは、朝召しあがりてお広前へお出ましになり、御年六十をこえさせたまうと、お広前のお勤めは日の出より日の入りまでとのお指図あり。しかし、それは信者へのことである。
(3)十五年の秋の末つ方よりは、大切なる道のお伝え事は多く夜間にあることとなれり。その一例をあげると、十六年の夏のある夜十二時過ぎ、一時に近きころ、お広前に到着した。わらじを解き、広前にあがり、結界のところへ参り、「ただいま、御領(佐藤範雄)参詣いたしました」と申しあげたら、
「そうか」
とて、すぐふすまをあけられ、お休みではなかった。ご端座なされておったのである。
(4)「よう遅くお参りでありました」
とのたまい、それより次から次へと神語りあり。
(5)「もはや夜明けも近かろう。お休みなされ」
と仰せられ、仰せのまま、「ありがとう存じまする」と退下し、吉備乃家へ下がった。かくのごとくして、大切なる道のお伝えは夜間なりし。(6)それが十五年秋より十六年へかけてのことである。
(7)「もはや此方世にあらずとも、この道は失われざるべし」
とのお言葉も、これまで申せしことをよく味わわれたらば、わかることであろう。(8)十四年から非常にご苦労であった。大阪で道の開けるについてのご苦労である。普通に言えばご心労である。十五年十六年のご神慮のほど、この一事で拝察できると思う。(9)多く、開祖たちはみな、この経路である。晩年に当たりて、いよいよのことは伝わるのである。
▲上へ
金光教教典理解3類より
ご裁伝と神がかり

わが教祖のご裁伝と、普通、世にいう神がかりとは、根本において違う。(2)神がかりでもうしたことは無意識で、本人には責任なしというので、近来、諸所に発生したる神がかり事件も、それが裁判弁論の根拠になり、精神異常ということで鑑定に付したりしておる。
(3)教祖のご裁伝は、それらと根本より異なる。教祖お道はじめより、信心手厚き者がお知らせを受けるのに、まず手みくじ、次に心知らせ、次に、わが口に言わしめたまう。それより、神徳進みてご裁伝となる順序である。
(4)「何の年の氏子」
と呼びかけられ、
「神の教えることをよく聞け」
と仰せられることもある。(5)教祖は、ご裁伝につきみずから全責任をもって立たれたので、ご裁伝は明治十五年よりは、
「ご裁伝は此方一代限りぞ」
とのご神命あり。ご帰幽後、四、五の広前にては、ご裁伝のありし所もありしが、後、やみたり。
▲上へ
金光教教典理解3類より
教祖み教えの大綱

明治十六年新九月八日、旧八月八日、前来申すとおり、一教の信条はそれぞれお伝えになり、教祖はほとんど昼夜を分かちたまわず、われわれも昼夜を分かたず。この日、久しく霊地にとどまりおったので、「金光様、今日まで数々のみ教え事を承りましたが、どの道でも、極意、奥義というものがあります。このお道の奥義は何でありますか、承りとう存じます」と申しあげしに、教祖、
「此方の道は九か条である」
と直ちにお答えあり、その間、「そうか」とのお言葉もなし。
(2)一、方位
二、毒断て
三、不成(此方のふじょうは、不浄にあらず、成らずと書くのぞ)
   三つ
(3)四、欲徳
五、神徳(寿命長久)
六、人徳(人に用いらるること)
   三つ
(4)七、神
八、皇上
九、親
   三つ
(5)拝承して、厚く御礼を申しあげた。教祖、暫時、無言のうちに御面持ち静かにおわしまし、神神しかりし中にもお疲れのありし様を今も拝する心地す。(6)このお伝えすむと、非常にお疲れのご様子も拝せらる。これぞ、生神最後のお伝えである。この九か条を拝せば、わが道の発達の順序も、神誡神訓の淵源も拝せらる。
(7)ここに、私ども、教祖へおわび申しても尽きぬ次第のあるのは、前、神誡神訓を拝記する折、「これほど次から次へお伝えがありますれば、全部で何か条ほどになりましょうか」と申しあげたることありしに、
「そうじゃのう、百か条にも余ろうぞ」
とのたまいしに、私どもの怠りにより、ご在世中には八十二か条しか伝わらなんだ。それに、この九か条を加うれば九十一か条となり、この日までに確然となる。私ども怠りあり、それで百か条に満たぬこととなった。(8)これは範男最後の日まで秘しおかんとしたるも、管長(金光家邦)様「みなに伝えておけ」とのお言葉ゆえ、教祖生神のご命と拝して、みなに今日お伝えしたのである。この手帳、今消えかけておるが、木筆(鉛筆)で厳然と読める。
(9)それから、あまり長く帰宅していないので、暫時おいとま申せしに、
「まだ暑いから、人力車で帰ってくれ。疲れてはならぬから」
とのたまい、青年の意気盛んなる時であったからご辞退申しあげておると、藤井くら様参詣口に来られ、「佐藤さん、車が来て待っておるから早く」と言われ、吉備乃家へ一度下がり、乗車して帰るに心安んぜず。赤鉢アカバチ(金光より一里)まで帰り、車夫に「ここより帰れ」と言うに、「金光様のご用ですから、西浜ヨウスナ(金光より三里半)までお供します」と言うて聞かず、新庄の堤(金光より二里)にて、また言うても帰らず。(10)「近いうちにお参りして申しあげる」と言うても聞かず、「それなら、私はここから帰らぬ」と言い、車からおりて動かぬようにしたら、車夫は「送り届けよと言われた金光様へはすみませぬが」と言って別れた。この乗車、二里ばかりなれど、長途の乗車の心地した。ありがたいよりは、恐れ入ったのであった。(11)お広前にて、私ども、生神を拝するのはこれが終わりであった。
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金光教教典理解3類より
教祖ご帰幽前後の御事ども

今までに、教祖最後の道の大綱をお伝えあそばされし次第を申しあげて、定めし教祖の神を拝せられたこととお察し申す。(2)九月二十九日、旧八月二十九日夜のこと、休んでおると、金光様のお夢を見た。「『金光大神、長日チョウジツの道を説きたり。萩雄、手代わり勤めよ』私、おいおい、お道取り締まりいたし候と、お答えいたし候」上記のお知らせあり、お答えしたる後、次の図のごとき祭壇が現る。


  ハ○  ○  ロ

   ニ   ○   

       ○   

  ハ○  ○   
   |           イ
   |          −−
   |
−−|
   |
   |
   |

 イ ご結界のお机
 ロ 夢に教祖拝礼の場所
 ハ 榊に幣帛のつきたるもの
 ニ 霊舎

(4)新調の白衣に黒紋付きのお羽織を召して(教祖は常にお袴を着けられず)霊舎にご拝礼あそばされ、目を開けば消え、目をつぶれば、また現る。(5)これは容易ならぬことと、照(範雄の妻)を起こし、この様を話し、参詣の用意を命じ、入田(瀬戸廉蔵の広前)に参り、夜が明けた。瀬戸先生に告げ、西六(高橋富枝の広前)へ参り、明神様に申しあげたるに、「昨日、信者が大谷に参り、帰りて言うに、『昨日、金光様おひきになり、萩雄様お勤めで、お目にかかりませんでした』ということであるが、まだ、よう参らぬ」とのこと。ともに急ぎ参ったが、萩雄様お勤めあり、「二十七日の夕方ご祈念の時、『金光大神、長々道を説きたり。萩雄、手代わりせよ』とておひきになった」とのことを承った。(6)御領の広前にてのこと、夢にして夢にあらず、神慮かしこし。範雄の心中祈念なしおる間に、萩雄様には、われわれ両人参拝の旨、大神様へお届けのご祈念があった。
(7)金照明神は西の方の裏にお回りになり、お休みのご容体を雨戸敷居の外から無言にて拝し、大広前へ帰られ、私もともにと思いしも、金照明神は向かい席のことでもあり、お休みのお姿を拝せられたるも、私は拝するを恐れ入ると思い、決心するところあり、拝さなかった。(8)この時、萩雄様には、「他に知らせぬようひそかに願います」とのお言葉あり、両人、「心得ました。なにとぞご大切になさいますよう」と申しあげて西六へ引き取ったが、この時のわれわれの心中を申しあげることは差しひかえる。(9)明神様のお言葉に、「金光様、いとお静かに、あお向けにお休みであるが、ただ、少しほおがすいて拝せられた」とのことであった。西六でいろいろ打ち合わせ、深更におよび、大阪の両師(二代白神新一郎と近藤藤守)に申したかりしも、差しひかえ、入田へ寄りて事の次第をお話しして御領へ帰った。
(10)ご祈念申しては末の事ども考えつつありしが、かかる間にもありがたかりしは、八十二か条、九か条を、世継ぎ萩雄様とともに承り、御奥義まで承りしことなれば大丈夫と、びりともせず、大盤石の心持ちでいた。(11)されど悲しくもなり、三日にまた改めて参りしに、萩雄様お勤めにて、「ご容体、何のお変わりもなくお休みであります」とのこと、極めて小さき声にて伺いしに、ふすま一重にて萩雄様は範雄の参りしことを大神様へ申しあげてくだされた。
(12)三十日にも三日にも、他に参詣者なかりし。当日、西六へ参りしに、金照明神は一日に改めてお見舞いとして参詣をしたとのことであった。その夜は道のことを語りて夜を明かし、四日帰り、万感迫る中にくり返しくり返し道の将来を考え、ご祈念に日を送った。
(13)明治十六年正月元旦のご祈念に、
「本年、金光大神の身に虫入りたり」
とあり、夏となりては、なんとのうお元気なく拝せられ、七月十七日、「金光様、いつまでお生きなされて人を助けなされますか」と伺いしに、
「いつまでもと思うが、肉体を持っておれば痛いかゆいこともあり、本当に人を助けることもできないように思う」
と仰せらる。教祖ご晩年の御徳進み、広く人を助けることは体ありては思うように神徳広まらぬとのご神意と拝し奉る。
(14)「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ言ってやる」
とのご理解と同じおぼしめしと拝せらる。
(15)同年七月二日、片岡次郎四郎師参詣の折、
「『今日より百日間修行せよ。しからば、金光大神の修行成就すべし』と神伝あり」
とお伝えありしが、その百日の修行成就は旧九月九日にして、ご帰幽前一日なり。

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